引力と重力
生まれたその日から、俺には重りがあった。

人一人分の命。

同じはずだった坊はなんでもないように生きていて、俺だけが重く感じる。それは血族だからということもあるのかもしれない。
繰り返される兄の名前。そんなのは知らない。
そんな他人の命の分まで背負うなんて重すぎる。俺はそんなに大層な人間じゃない。
そうやってずっと逃げてきた。
ずっと、ずっと――なのに。
「はっはっはっ……なんなんや、これ……」
逃げているのか、戦いに行くのか、分からない。
ただがむしゃらに走って、走って。
『志摩さん、行って!』
子猫さんの声が耳に木霊する。もういいだろうと思っても、その声が頭から離れない。
途中で子猫さんは胞子の飛沫を抑えるために留まった。後はもう俺は一人で進むしかない。
(坊も子猫さんもおらんのにどうして俺、走ってるん……)
いつだって、坊や子猫さんに引っ張られるように戦ってきた。二人が居なければはなから祓魔師になんかなろうと思わなかった。
だから、立ち止まったら最後だ。
精神的にも、物理的にも、それは分かりきっていた。
分かりきっていたのに。
雪崩れてきた飛沫に足を絡め取られて転ぶ。キリクの炎で焼き尽くすがそのまま地面に仰向けに転がった。
荒い息が零れる、もう、無理だ。もういいだろう。もう勘弁してくれ。
(……どうせ、俺が行ったってなんもかわらん)
きっと誰かが情報を伝えているだろうし、戦力的なものなら兄たちが居れば十分だ。

――ドドドドド

物凄い音を立てて何かが落ちてくる。その落ちてきたものと目が合った。
膝を着いてすぐに地面を蹴った彼は共に落ちてきた巨大な胞子の飛沫を剣でぶん殴る。
飛び散った飛沫が俺のすぐ側に落ちた。
「おい、志摩!大丈夫か?」
自分の方がよっぽどボロボロの癖に、大慌てで俺の分まで振り払って他にも迫ってくるものを祓いまくる。
ていうかなんでこんなところにいるのか。
落ちてきた方向を見ると、むしろ自分が変なところに迷い込んだようだ。
「守ってくれなんて頼んでへん」
パシリと伸びてきた手を払う。
みっともない、格好悪い。どうして俺はこうなんだろう。
それでも、どうして立ち上がるんだろう。
「もううんざりや……」
吐き出した言葉が向ける相手が違うことなんかもう分からなかった。
「俺なんかほっておけばええ。なんで助けになんて来たんや」
その鎖に絡め取られていくような息苦しさは、きっと誰にも分からない。
奥村君のようにこれしかないわけじゃない。
坊のように目的があったわけでもない。
子猫さんのようにしがみ付きたいわけでもない。
どうしようもないわけじゃない。自由になることだってできた。俺がただ別の学校に行けばよかった。うちは男兄弟も仰山おるし跡取りもなんら問題はない。一番頼りのない末っ子を頼みにする必要はどこにもなかった。望めば自由になるのは簡単だ。
だから余計に苦しくて。
「俺はもう、こんな面倒くさいのはごめんなんや……」
唇を噛み締めた所為で途中で言葉が途切れる。
そうしなければみっともなく、涙が溢れそうで。
「別にそんなの普通だろ」
「嘘や。格好悪い思うとるくせに」
「……助けに来てもらって、俺のが格好悪いだろ」
さっきから嘘ばっかりだ。いつだって真っ先に危険に突っ込んでいくくせに。
恐かったらそんなことするわけがない。
「格好良く助けに来てくれた奴が何行ってるんだよ」
「格好良かったんは坊やろ。俺、イヤイヤや言うたやん」
「でも来てくれたことに変わりはねぇだろ」
振り払った手がもう一度伸びてくる。本当に、なんで俺なんかに構うのか。
それを逆に引っ張った。
「おい、志摩?」
「なんで俺なんやろ……」
抱きしめた肩に顔を埋める。
柔らかさはないけれど、それは期待していない。今はこの硬さが安心する。
「柔兄のが家のことちゃんと考えとるし馬鹿でも資格の2つくらいは取ってる」
「すげえなぁ」
「俺はさ、家族みんな祓魔師やし坊も子猫さんも祓魔師目指すって言うからついてっただけで」
みっともない。戦うしかない奥村君にそんな弱音。
格好いいなんてもう絶対言われないだろう。
「なのになんで俺なんかなぁ」
父のキリク。倒れても絶対に手放さなかったそれ。
重くて、重くて。
息が詰まりそうだ。それでも、放せない。
「おまえはさ、ちゃんと迷えるからじゃね?」
「……それ褒め言葉じゃあらへんよ」
「そんなことねぇよ。だって、迷ったおまえが一番前で戦ってるじゃん」
そんなのは結果論でしかない。
それと単なる適正か。
「勝呂も、子猫丸も、おまえが守ってきたんだろ?」
そんなこと当然で。
そんなこと当たり前で。評価なんてされるところじゃない。
「大切なもんちゃんと守れる奴が一番強ぇよ」
ニッと笑って立ち上がった奥村君につられてもう一度立ち上がる。
迷ったっていいそれだけで。
不思議とあれだけ重かったものが軽くなった気がした。









































































わけも無い日
朝起きて、歯磨きをしながら鏡に向かう。
自分の顔にニッと笑いかけてみれば上機嫌な顔が笑んだ。
「んー今日も漢前や」
「おい、何朝からなに浮かれたことやってんねん」
げしっと後ろから蹴られてもまったく何にも問題ない。
わけも無く嬉しくなる日というのがある。
否、わけはある。ただ、別にその日に何があるわけでもない。
誕生日という響きがなんとなく気分をよくする。
小さい頃の刷り込みなのか。大所帯だったし貧乏だったから特に何が貰える訳でもなかったけれど、おめでとうと皆が言ってくれた。
最も兄弟の数が多いので間違われることもわりと多かったが。
「あ、志摩。はよ」
「奥村くんおはよー今日は早いね」
「今日はってなんだよ」
実際、まだ教室には自分と奥村くん二人しか居ない。
坊と子猫丸は掃除当番だし、元々人数が少なくてがらんとした印象のある教室がさらに人気が無い。
そんな状況になんとなく笑ってひょいひょいと手招きする。がさがさと白いビニール袋を揺らしながら、いつもの自分の定位置に荷物を置いて奥村くんは不信そうな顔で俺の顔を覗き込んだ。
「なんか嬉しそうだな」
「あ、わかる?」
「テンションうぜー」
「ひどっそれが誕生日の友達に対する反応なん!?」
「誕生日?」
きょとんとして、それから理解したように笑った。
「へぇおまえ今日で1個年とるんだ」
「そうやで、奥村君よりいっこ上や。敬ぃ」
「ほんの数ヶ月だろ」
けらけらと笑ってくだらないことを喋りながら奥村くんは席に戻る。
俺の方からは背中だけが見えて。
「おーい奥村くーん?なんや人おらんのにこの距離は仲悪ぅ感じで寂しいんやけど」
「ちっげーよ」
別に避けてるわけじゃねぇしと言いながら隣に戻ってきて、乱暴に隣に座る。
それから手に持っていたものを机に置いた。
「ん、やる」
「ええの?」
突き出されたゴリゴリ君。奥村君の好きなアイス。暑い夏には酷く恋しくなる。
云十円のプレゼントにしょぼいなぁと笑って貰うべきか、彼の好きなものを本当に貰ってもいいものか、反応を少し考える。
ただ、それが彼の僅かな生活費の中から出ていることを知っている。
「しょぼいけどさ、貧乏は祝わねぇ理由にはならねぇよ」
こっちの思考を読んだようなタイミング。
「誕生日、おめでと。志摩」
「そうやね。ありがと奥村くん」
溶けないうちにかじりつく。安くってもやっぱり夏に食べると美味い。
あたりの文字が見えて、ああ誕生日って本当にいいことあるんだなと思った。










































































戦闘5秒前1シーン
青い炎がチリチリと空気を焦がした。
たまたま居合わせた所為でその凄まじい光景を見ることとなった廉造は呆けたようにそれを見た。
(おわー流石っつーか、なんつー力技……)
これは相当遠くからでも見えただろうと思うと、廉造にとってはそれよりよっぽど恐いものにちらりと目を向ける。
燐にとって危険なのは悪魔だけではない。むしろ人間の目の方が厄介なときはある。
悪魔との戦闘は終わったが、最後に駆けつけてきた男は未だ銃を下ろさない。燐は刃を仕舞う余裕も無く、べたりと地面に座り込んでいる。そう、緊迫した空気と力の抜けた空気が非常に居心地悪い。
そろり、そろり、視線を移動させるのは緊迫した空気の方――つまりは猛烈に腹を立てている塾の担任講師に、だ。
「……兄さん」
「おー雪男、遅かったな」
ぴょこんと尻尾が揺れる。へばっていても悪魔を倒せたのが嬉しいのだろう。
顔を上げないから燐に弟のその強張った顔は見えていない。
(あ、爆発や)
カチリと音を聞いたような気がして廉造は肩を竦めた。
すぅと息を吸う音の後、言葉は吸い込まれた空気全てと共に吐き出された。
「だからどうして兄さんはそうなんですかっ」
「んなの仕方ねぇだろ!」
冷たい一瞥。苛立ちは自分の思うとおりにいかない所為か、それとも。
守りたいのに守れない、その苛立ちか。
この色々と凄まじい兄弟が多分俺の家みたいな普通の兄弟とはちょっと違って呆れるくらい過保護なのは知っている。そう、ちょっとばかり弟の感情表現が素直に見えないだけで、弟だってかなりブラコンなのだ。
同じ弟だから分かるなんて思いはしないけれど。
(だってうちはこないな兄弟愛ないもんなぁ……)
うちだって兄弟仲はいい。そしてやっぱり男兄弟の有り方として結構乱暴なコミュニケーションだ。ただし流石に武器はない。精々素手だ素手。馬鹿兄貴たちに投げ飛ばされることはよくある。
(うーん、奥村先生の奥村君に対するこの過保護さはなんやのかなぁ)
コンプレックス、とは違う。無くはないかもしれないが、まるで鳥篭にでも入れておきたいというようなこの盲目的な愛はなんだろう。
なんだか猛烈に言葉が寒い。
「次にその青い炎を出して問題を起こしたら殺されるといわれたはずです。死にたいんですか?」
「んなわけねぇだろうが!」
「それならいっそ、僕が殺してあげましょうか?」
銃を向けられた燐はピクリと肩を張るが動かない。
黙って弟を睨みつける。
「あなたは勝手だ。そうやっていつもいつも自分で勝手に動いて周りを混乱させて」
「んだと!?ちゃんと倒してるだろうがっ」
「結果論です。兄さんはただ感情に任せて暴走しているだけだ」
弟の言い分は正論だ。正論すぎて可哀想になってくる。
これでは反論のしようもない。
確かに燐は突っかかって、突っ込んで、こんな風に結果的に騒ぎを大きくしたりもするけれど。
(ちゃんと俺たち守ってくれはったんだよなぁ……)
それは感情で動いてくれるからこそだろう。
理性は頭を通る、それは若干とはいえ時間をロスし、可能なことを不可能にする。
先生でも誰でもない。奥村燐という奴に俺たちは助けられてきた。
だから。
組み立てたままだった仕込みキリクを大きく振って構える。
「センセ、武器出すんはちょーっとまずいんちゃう?」
しかも対悪魔用の武器をサタンの息子に向けるというのはもう洒落にならない。うっかり当ってしまったら取り返しの付かないことになるだろう。そうなったら多分どっちにとっても不幸だ。
「なんです志摩君。僕は兄さんと話があるので戻っていてください」
ぽりぽりと頬を掻く。なんだろうこの人の話を全然聞かない感じの対応は。
仕方がない。この兄弟喧嘩を仲裁できそうな人間はここには自分一人しかいない。
「兄弟喧嘩に立ち入るのは野暮やとは思うんですけど」
兄弟の多い家庭で育った廉造には喧嘩がコミュニケーションの一つであることを知っている。
だが、じゃれあいには最低限のルールがあるはずだ。
言葉も正論で追い詰めるためのものじゃない。
「流石にちょーっと奥村君可哀想なんで」
チャキリと構えたキリクの先を雪男に向ける。
「加勢させてもらいますわ」
「いいでしょう」
冷静さが欠けたまま雪男が眼鏡の弦を上に挙げる。
普段の彼であれば決して生徒に銃を向けたりしないだろう。
だが、兄を庇う廉造に苛立つように構えた銃が火を噴いた。










































































君の後ろに隠れたわけ
着替えて落ち着けば、まだ合宿の夜は続く。
とはいえ奥村先生は事後処理で手が離せないからほぼ自習だ。つまり碌に勉強なんてするわけがない。怪我は軽いし戦闘で興奮状態になった青少年なら当然のことだろう。
「いやぁそれにしても奥村君、どうやって倒しはったんです?剣持ってはるけど、俺のキリクじゃ全然歯立たなかったですわ」
「あーまぁ、その、なんつーかな……ってかおまえあいつと切り結んだのか?意外とやるんじゃん」
「意外とって酷いですわぁ」
「え、だっておまえ俺の後ろ隠れてたろ」
確かに、確かに、だ。
それを言われたら仕方ないが、普通いきなりグールなんて見たら驚く、というか恐い。恐ろしいものに遭遇したときに何かに隠れるというのはわりと普通のことだ。多分遭遇したとたん突っかかっていく奥村君の方が特殊だ。
だからそれを恥じることは無い。怒鳴る坊にも平然と応じる。
「そうや志摩、てめーなんで奥村の後ろにかくれるんや」
「そら坊を楯にするなんてできまへんし……子猫さんやと俺隠れられませんもん」
「隠れる選択肢しかないんですね……」
そりゃ、苦手なものは苦手だし恐いものは恐い。
無理して動けなくなっては本末転倒だし、自分がさほど心臓の毛が丈夫なわけでないことは自覚している。
「せやから俺頑張って援護しはったでしょ?」
「まぁな……」
「せやからまた隠してーな奥村君」
「ほな、隠れてても戦えるようだべってないで勉強せぇ」
ぼこりと頭を叩かれて、はーいと雁首そろえて教科書に向き直る。
坊と違ってあまり暗記は得意ではない。奥村君ほど馬鹿でもないけれど、どうしたって頭の出来で自習の箇所は変わるから頭脳派と肉体派で分かれるように机を挟んで向かい合う。
教科書を覗きこんでもすぐには集中できないのがつまりは暗記得意でない組みで、話足りないように奥村くんがずずっと教科書に顔を隠しながら顔を寄せる。内緒話の格好。
「でもさぁ、俺より勝呂のが背高いだろ?」
「うーんそうなんやけど、なんでやろーな」
つい、うっかり。一番近かったとか、一番奥だったとか、適当な理由はいくらだって付けられるけれど。
つまりは無意識な行動に繋がる心理があるわけで。
坊の背に隠れるわけにはいかない、子猫丸の後ろもだめだ。
その心理を除いたら。
その背中はいつだって逃げず、怯まず、しっかりと背を伸ばして立ち向かう。
――だからかもしれない。