09
陽が落ちた。
夕暮れの薄闇の中、廉造は一人敷地内を歩く。風呂が別棟にあることで、泊まっている部屋から外を歩いて行き来する必要があるのだ。それも別に広いわけではないから一人ずつ。
別になんてことはない距離だが、どことなく心細くなるようなそんな道だった。
「そろそろ寒くなってきおったなぁ」
ブルリと身を震わせる。ホカホカと今は汗ばむくらいだがあっという間に熱は冷めるだろう。湯冷めしないといいのだが。
――尤も燐も廉造もそのあたりを気にする性格ではない。
その何の変哲も無かった空気が、目の前でゆらりと歪んだ。
『お迎えに上がりました、若君』
足を止めた廉造の僅か数歩の距離。それは優雅に頭を下げた。
不自然すぎる出現と、明らかな相手の正体に咄嗟にキリクを抜こうと肩に手をやるが、無い。風呂に行くのに外したのだ。
何せまさかこんなところで遭遇するとは思うわけがない。如何にしょぼかろうがぼろかろうが正十字騎士団の出張所であるのだから結界だってあるはずだ。
と思っていたのだが違ったのか。
焦るほどこの事態を把握していないが、目の前に現れた者の正体は間違いようが無い。
人の形をしているが、違う――悪魔だ。
「どちらさん?」
上ずりそうになる声を抑えて問う。落ち着け、落ち着け、落ち着け。
弱みを見せるのは得策ではない。できるだけ平気な顔をして、後は一目散に逃げる。ハッタリというのは何に対しても結構有効だ。
だが、言葉を発した瞬間ギラリと殺気が閃いた。
違う、と呟くその根拠は一体なんだったのか。
『何故、人ごときが若君の気配を持っている』
「ちょ、ちょい待ちや……」
(悪魔に間違えられた……?)
というか若君ってなんだ。一体全体どこの若様や。
ツッコミを堪えながらじりじりと後ろに下がる。キリク以外に使えるとしたら覚えたての詠唱だが、まったくもって効くとは思えない。もっと重要なところで男を口説くなんて御免だ。
(あかん……なんも思いつかん……)
この状況をどうにか無事生きぬく方法なんて。ぬらりくらりと言いくるめられる相手ならともかく、悪魔が話を聞いてくれるとも思えない。上手い対抗手段が無ければ最後の手段はひたすらダッシュだ。
一か八かの賭けを覚悟して足に力を入れる。
「おい、てめぇなにしてやがる」
悪魔の後方。廉造から見れば進行方向から振ってきた声に双方が顔を向ける。
「奥村君!」
『若君……!』
それは歓喜の声。
助かったと安堵する廉造の声と、探し物が見つかった悪魔の声と。
「おっせぇなぁと思って来てみれば、悪魔とご対面かよ」
「いや別にその所為ってわけじゃないけど……」
どちらかというと多分それは風呂の所要時間だ。長い方ではないが、短くも無い。燐の性格なら鴉の行水なんてありうることだ。
それで助かったというべきか――尤も助かったかどうかはまだ分からないが。少なくとも今は対抗手段がある。彼はいつも剣を手放さない。
対抗手段があるのと無いのでは大分違う。
『やはりいらっしゃったか……!」
「……奥村君お知り合いなん?」
「知らねぇけど……俺もしかして有名人?」
いや有名人てなんのなんと首を傾げながら顔を見合わせる。上位の祓魔師なら悪魔に名前が知れていたとしても分からないでもないが、まだなってもいない若造を知っているとしたらその理由は皆目検討が付かない。少なくとも廉造には。
廉造から燐へと方向を転換した悪魔は感極まった様にゆっくりと近づく。完全に興味が移った。
さすがにそれを良かったと喜ぶほど薄情ではないが、肩の力が若干抜ける。
『入り江で気配を見つけてから探しておりました……若君。共に×××へ参りましょう』
上手く聞こえない。聴覚がそれを言葉として認識しない。ただ、燐の顔が大きく歪んだのが見えた。
――銃弾が地面を貫いた。
正確に悪魔の足元に打ち込まれた弾は、もう一歩進んでいれば足を縫いとめられただろう。燐のさらに後方に、銃を構えた雪男の姿があった。
『要らぬ邪魔が……』
明らかな戦意。それに舌打ちをしかねぬ調子で。
すらりと地面へ吸い込まれるようにそれは消えた。またお目にかかります若君と燐に向けて深く頭を垂れて。
「兄さん、志摩君!一体何が……!?」
駆け寄ってきた雪男は状況の説明を求めた。つまりは発砲したわりに何も把握していなかったわけで。
「わけも分からず発砲なさったんですか……?」
思わず、問いかけた言葉には平然と分かってからでは遅いでしょうと返される。そりゃそうだと横で燐が肯いた。
(……ちょっとこの兄弟うちと同じやん)
主に力に訴えるところとか、間違いなくうちの家族と同じ人種だった。






































































08
ざわりと壊れた社の扉が揺れる。ひかれてきた強い力。
青い炎の、その力の名残。
こんな場所に悪魔の王たる魔神が降臨するはずがない。だとしたら……

――わか、ぎみ?



古い畳の上にあぐらをかきながら目の前の紙と筆とを絶望的な顔で眺める。いやもう終わるわけがない。なんだこれ絶対に終わらない。
投げるに投げられない本の代わりに両手を上げてギブアップだ。
「あーあかん!無理や……何編あると思うてるんやこれ……」
百人一首を覚える苦労に近いものがある。というかそのものか。しかも似たり寄ったりの恋の歌ばかりではさらに紛らわしい。誰だこんな致死節考えた奴。というかどうしてこんなのものを悪魔に唱えてみようと思ったのか謎だ。俺にはさっぱり分からない。
しかもなんだ覚えるついでに写しておいてくださいとか今の時代なんでパソコンじゃなくて紙と墨。
廉造よりさらにじっとしていることに耐性のない燐はすでに畳に伸びている。
散らばった燐の紙面はもはや汚すぎて読めない。どこの国の言葉だろうかというレベルだ。
「なー志摩、ちょっと出て来ようぜ」
げっそりとした顔でふらふらと燐が起き上がる。
自分の手元と立ち上がった相手とを見比べて、廉造はあっさりと前者を投げ出した。
「ええけどこの辺なんもないで?」
「でも、なんかこの辺は研究盛んだって雪男が言ってたし」
ちょっと聞いてみればなんか違うかもしれないしと返って来る。すでに燐はうずうずと出かける気満々だ。暗記に関して言えば聞いててどうにかなる問題ではないかもしれないが、気晴らしにはなるか。
「しゃあないなぁ」
スニーカーを引っかけてぶらりと部屋を出る。
どちらかというと部屋でだらだら過ごすのが好きな部類だが、数時間ぶりの外の空気が物凄く美味しく感じた。
とりあえずで出てきたから目的なんて無い。とくにやる気もなくだらりと歩きながら、本当に何も無いなと思う。コンビニでもあれば立ち読みもできるのに。
娯楽になるようなものはないが、まぁ何もない田舎風景はあの豪奢な学園内にいれば新鮮といえば新鮮だ。京都の風景とも大分違う。
燐が途中で見つけた二人組みのおばちゃん目掛けてぶんぶんと手を振った。
「なぁなぁおばちゃーん」
「なあにあんたたち。出張所に泊まってる子達?」
「おん、そんでちょーっと聞きたいんですけど」
あの洞窟について、相手は普通のおばちゃんなので廉造が悪魔のことは上手く濁して聞く。そういう微妙な濁し方は燐は苦手だということが短い付き合いでも分かっている。燐ならばっちりあの洞窟の悪魔ってなんですかとか聞きそうで恐い。
まぁ出張所のことを知っているのだから、このおばちゃんたちも悪魔のことを知っていて見えているのかもしれないが。
「あぁ、あそこは自殺の名所で有名よぉ」
「男に裏切られた女の飛び込み自殺」
「あーやっぱりな……」
口をそろえて出てくるのは、あの悪魔から想像した通りの話だ。
地形的にそれがしっくりと当てはまった。あの致死節を見つけた奴も、だからあれを唱えたのだろう。
(理屈は分からなくないんやけどな……)
でもなぁと思ってしまうのはそれが結局口説き文句で、悪魔を口説くという発想が廉造に無い所為か。それとも他人の考えた口説き文句を口にさせられる所為か。致死節とするにはあまりに個人の唱え方に寄りすぎる。棒読みの歌なんて誰が信じるだろう。
「あんまり多くって海が荒れるのもそのせいで、慰めるため生け贄を捧げてたっていう歴史も残ってるくらい」
「まさかそれ、今もやってねぇよな……?」
「さあねぇ。私が覚えてる限りじゃないけど」
恐る恐るといったような燐の顔におばちゃんたちがけらけらと笑う。
ただ、さすがに無いだろう。そんな犯罪間違いなく捕まる。
「あ、でも昔ね蒼い炎が噴出してからあの辺りは人が寄らなくなったんじゃなかったかしら」
「蒼い炎……」
ぎくりと燐の動きが止まる。
魔神の炎。その力の証。
「火の気もないところなのに、祟りだって騒ぎになったから」
「ああ、そういえばそんなことあったわね」
「結局なんだったのかしら……?」
おばちゃんたちが物思いにふけりながらはてと首を傾げる。
思い出すために過去に遡ったみたいだが、原因までは出てこないらしい。当然だが。
当然ではあるが、地元民であれば分かることがあることも当然で。
「それ、誰か死んだりとか……」
燐の様子が可笑しいと気づいたのはその言葉が出たからだ。
そんなこと、面白がっては聞けない。
「そっか、ありがとおおばちゃん」
あまり詳しい話は聞かずに廉造は話を切る。行こうと促せば燐は大人しくついて来たけれど。
どう考えても可笑しい。人懐っこいような笑顔が消えている。
目的の話が聞けてもう少し盛り上がっていてもいいはずなのに。
「別に気にすることないやろ。うちだって蒼い炎で死んだ奴ぎょうさんおるって聞いてるけど、その後はまったく出てへんし」
「そっか、おまえのところも出たんだっけ」
「俺は見てへんけどな」
丁度生まれる頃の話だ。一番上の兄貴はその炎で死んだらしい。
そういえば彼も魔神を倒すと言っていた。
きっと青い炎に思うところがあるのだろう。誰かが死んだのかもしれない。
だからそんなにも拘るのだとすれば納得がいく。
「なんもないと思ったけど、結構いろんな話が出てくるんだな」
「まぁ予想通りといえば予想通りやけどね」
はぁ、と重たい溜息を落す。
そろそろ現実を見なければならない。
「そんで覚えられそう?」
「むーりー!」
部屋に戻ると待っているだろう白い紙の山を思って肩を落す。
当然ながら結局何にも覚えるヒントは出ていない。他人の口説き文句を覚えるなんて、度台無理な話なのだ。
「ま、最悪やったってこと分かればいいだろ」
「いつまでもこっち居るわけにいかんしね」
あっけらかんとした燐にですよねぇと望みを託す。
さすがに学校を何日も休ませる訳にはいかないはずだ。










































































07
案の定、またしても吸血蝙蝠に群がられてさらにズタボロになって這い出した。
ドロだらけで擦り切れた制服は多分もう着られないだろう。一応変えの一着くらいは持っているけれど、制服というものは案外高いのにと思うと憂鬱になる。
「制服、支給してもらえるんやろか……」
「買うとか無理だろ……最悪雪男のパクる」
疲れきった呟きに拳つきで返される。現役兄弟がいる人はそれでいいとして俺どうしよう。
実家に連絡すれば兄のものがまだ残っているかと考える。それにしたって数日をどうにか乗り切らないと。いっそもう数日ここに居てもいい。
そんなことを思いながら歩いて数分の出張所の古い玄関扉を開ける。
ギシリと明らかに古い音を立てて開いた扉のその向こうで。
「兄さん、志摩君?遅かったです……」
ね、と語尾が消えて顔を顰める。日常ではありえないボロボロの姿を見れば誰だってそうなるだろう。だが任務であれば間々あることだ。
「一体何をやっているんですか」
「へ?」
眉間に寄った皺が本気で、目が丸くなる。何をやっているってそれはもう任務に決まっている。送り出した張本人が何を言っているのか。
「やー大変だったんだって。なぁ志摩」
「そうですよぉ。あんな悪魔が居るなんて聞いてませんて」
口を揃えて訴えれば雪男はさらに怪訝な顔をする。
「一体何の話ですか?」
まるでそんなわけがないと言うように。
そんな大変な悪魔など居るはずがないと言うように。
「だからおまえが取って来いって言った致死節のところの悪魔の話だよ」
「まさかそんな危険な任務に候補生を二人だけで放り出すわけがない」
「わけがないもなにも実際そうだったんだよ」
でなければ夢でも見たというのか。だがこの有様は決して夢では起こり得ない。現実の話だ。
納得のいかない顔で雪男は燐へと手を伸ばした。
「……地図を見せてもらえますか?」
燐のポケットの中でグシャグシャになった紙切れが広げられる。覗き込んだ雪男は目を細めた。
記憶している地図と微妙に地形が違う。
(これは……)
摩り替えられた?
そんな馬鹿な。どこで誰がそんなことをするのだ。誰がという意味では心当たりがありすぎる。魔神を憎むものなら大勢居るのだ。雪男も兄も、その影響は受けざるを得ない。
分かっていることだ。故に常に警戒を怠れない。たとえ仕方がないことだとしても、それに嵌ってやる必要は何処にもないのだ。
「雪男?」
燐に覗きこまれてはっと雪男は顔を上げる。
だが兄は何も知らない。警戒心を持たない。持たせないようにしていたのは雪男たちだ。それを責めることはできない。今はぐしゃりと地図を握りつぶして笑顔を作る。
「誰も行きたがらない場所だったので情報が伝わらなかったのかもしれません。報告しますので纏めておいてください」
「「げぇ……」」
二人して嫌そうに顔を顰めて不満を示す。
書類仕事が苦手そうなのは最初から分かっていたが、任務になれば必要が出てくるのは当然だ。今のうちに慣れておいてもらおう。
「ていうか、知らなかったんならなんで騎士と詠唱騎士だと丁度いいんだよ?」
「別に竜騎士と詠唱騎士の組み合わせでも良かったんですが」
くいと眼鏡を上げる。その仕草で目の奥が見えない。つまりあまり良いことを考えているわけがない。
「詠唱騎士向きの任務だったので」
つまり、今はまだ燐と廉造には分からないところで詠唱騎士向けな作業が待っているということか。悪魔との戦闘が想定内であったのならなるほどで終わったが、どう考えてもあれじゃない。
「十分暴れたと思いますので、これを暗記して帰って来てくださいね」
トン、トン、と指差す廉造の手の中の古びた冊子。
そこに何が書いてあるかは廉造が一番良く知っている。
「うそやろ……」
「勉強になると思いますよ。此処は悪魔の研究が盛んな土地ですから」
にっこりと嘘ではないと希望を粉砕してみせる。
それこそが悪魔の笑顔だった。










































































06
「大丈夫?」
「げほげほっ……助かった……さんきゅ」
「ええんやけど、奥村君も歯が立たないつーとどないしましょか」
「おまえまだ試してねぇじゃん」
「無茶いっちゃあかんで、奥村君」
早々に白旗を揚げる廉造に燐は思わず生ぬるい目を向ける。まぁそうかもしれないが。
うーんと二人で考え込む。
「あそこにへばり付かれてたら致死節つーのも取れないしなぁ」
「それだ!」
剣を抜かなければ燐の力は半減する。だが、その運動能力と頑丈さはそれでも常人よりは余りある。
雪男はなんと言った。
”詠唱騎士”と”騎士”が丁度いい、その意味は。
「俺が引き付ける。おまえ詠唱であいつ倒せよ」
がらりと石くれが落ちる。
あまり派手なことはそろそろ止めた方がいいかもしれない。
「んなこと言っても俺こいつの致死節知らんよ!?」
「だから調べろって!」
「んな無茶苦茶なっ」
大体知らないんだから探し出すことから始めなくてはいけない。
そんなの教科書も無いのにどうやって――
(いや、ある)
自分たちはここに致死節を取りに来た。そういうことだ。
その致死節が、この悪魔のものである可能性は高い。
「つったってどんなもんかもわからんのに、もし違うたらどないするん!」
「無茶でもなんでもしなきゃどうにもなんねーだろ!?」
「や、ちょ、ま、奥村くんー!?」
引き止めるのなんかもう聞いちゃいない。
抜かない剣で再び燐が悪魔と向き合う。
すでに廉造なんて眼中に無い。真剣勝負はこっちのことなんてお構いなしに勝手に始まっている。
「あーっもう厄介な……」
なんだってあんなに躊躇いがないのだろうか。恐くはないのか、自信があるのか、馬鹿なのか。
坊じゃないが、あれじゃ体がいくつあっても足りないだろうと思う。
そんなのに付き合わされるのはたまったものじゃないが……上手く行っているなら次は自分だ。
「はよせな……」
(水辺の悪魔の致死節……なんや?)
走りながら考える。ここにくるまでにクイズ大会をしていただけの甲斐があったというものだ。
暗記は得意じゃないが、臨機応変に対応するのは得意だ。
当てさえつけば覚えてなんていなくてもどうとでもなる。
そう、悪魔の致死節は暗記する必要は無い。間違えず、唱えればそれでいい。
探す場所も決まっている。
「南無参!」
燐を追って離れた隙に古ぼけた社の扉を開ける。
燐が開いたそこに鎮座する一冊の本。
タイトルを見て廉造は思わずぽかんと口を開けた。
「恋々歌?」
手に取ると壊れてしまいそうなそれは、もしかしなくても紙じゃなくて竹じゃないだろうか。
何時のものだ。恐る恐る手に取って、頁を捲ってみて読める字であることにほっとする。
梵字ならなんとかなるが、漢文だったら完全にアウトだった。
仮名が多いが全うな現代語だ。
「なんやこのごっつ甘い歌は……」
廉造でも歯が浮きそうな言葉の羅列は、どこが悪魔に利くのかさっぱり分からない。なにしろ愛だの恋だのばかりで神様も仏様もまったく出てこない。
悪魔に恋愛を囁いてどうするというのか。
(ちょぉ待てよ……)
ぐるりと洞窟内を見回して、地形を思い出す。
来るときに海は通らなかった。だが、水が流れ込んでくるということは海か川の流れがある。地図を考えれば海の方が確立が高い。
ここが入り口と違って妙に広いのは、つまり天井が高いのだ。
結構な高さだとして、そこは海の岬だとしよう。だとしたら。
「これ、ただの洞窟やない……そうか、こいつは水の王の眷属やなくて……!」
勢い良くページを捲る。
斜めに読んで甘い甘い詩の中でも飛び切り甘い歌詞を探す。
「これや!」
裏切られた女を慰めるとしたら、それに漬け込む甘い言葉は。
君みたいな人を振るなんて見る目が無いとか、君に会えてよかったとか、自分には君だけだとか、そんな言葉か。
「女口説くならこの志摩さんに任せんさい!」
朗々と五七五の歌声が響く。
燐に翻弄されていた悪魔が振り返る。廉造を、見た。
腰が引ける。引くな、気張れ。
キリクを握る手が強くなる。
「そのまま行け、志摩!」
燐が髪を払う。そこに危うさはない、任せておいて大丈夫だ。
甘ったるい言葉を囁け。
詠唱を始めれば集中的に狙われると聞いてはいたが、廉造の声が聞こえた途端に目の前に居る燐に見向きもしなくなったのには驚いた。
向きを変える髪を片っ端から叩き落す。
廉造の元へは行かせない。それが燐の役目だ。
じっと対峙する悪魔は廉造に視線を固定したまま。だから別に燐に話掛けたわけでもないのだけれど。
『本当に、私のこと、好き?』
「あいつは格好良くはないけど、嘘は言わねぇよ」
思わず答えた。口説き文句は本気ではないかもしれないけれど。
誰にでも言う言葉が確かに真実に聞こえるから。
『そう、あなたも寂しいのね』
最後の一音が聞こえたのと同時、その一瞬。
そこだけは声と視線が燐へと向けられた。
それきり、声は聞こえなかった。
「消えた……?」
「おーよくわかんねぇけどなんか終わったみたいだな」
燐の回答にふうと肩の力を抜いて廉造がひっくり返る。
「あかん、ほんまびびるわぁ……」
「つーか志摩、おまえ恥ずかしくねぇの?」
「仕方ないやん!そういう奴やったんやから……」
力説する廉造は何を見たのか早々に肩を落して俯いた。
廉造の視線を追って、燐も思わず顔を強張らせる。
「帰りもあの蝙蝠ん中突っ込むんかな……」
顔を見合わせて憂鬱に息を吐く。既にげっそり疲れているのだが。
帰りは帰りで長い道のりになりそうだ。