05
反響する足音に混じってふと耳に響くモノに燐は顔を顰めた。
耳が痛い。なんだか頭に響く音だ。
日常生活では聞かないその音がなんの音か分からずに燐は後ろを振り返る。
「おい、なんか聞こえねーか?」
「俺なんも喋ってへんけど?」
「じゃなくて。なんかすげぇ耳にくる……鳥の鳴き声みたいな」
なんとか近い形容詞をくっつけてみたが、いまいち違うような気がしてならない。自分にだけ聞こえるというのなら気をつける必要がある――悪魔の声という可能性が出てくるからだ。今のところクロのように言葉として聞こえてくるわけではないが。
「鳥の鳴き声なんて……」
見合わせた廉造の顔がみるみる青くなっていく。
やっぱり廉造にも聞こえたのかと思えば、ちょいちょいと後ろを指差した。
「……奥村君、前見てみぃ」
廉造の指指す方――自分たちの一本道の進行方向を見て絶句する。
気持ちの悪い黒い塊。天井を埋め尽くすそれは確実に進めば頭を突っ込む。
恐らく、吸血蝙蝠の集団だ。
「これ抜けなあかんつーわけか」
「ていうか近づいてね……?」
廉造はげんなりと天井を見上げてその事実を確認する。
どう考えても無理だ。匍匐前進で進んだとしても、上でじっとしていてくれる保証は無い。それならば反撃も遁走も出来なくなる態勢より走り抜けた方が良いか。まして、止まっているのに近づくということは。
「……やーっぱ気休めにもならんかったみたいやな」
血が、匂うのだろう。
近づいてくる獲物に気づいている。じりじりと待っている間に決断が必要だった。
引き返す選択肢は無い。となれば。
あまりの光景にあははと空笑いを浮かべる廉造を燐がどつく。
「笑ってないで走れ!」
言われなくても足は動く。同時に吸血蝙蝠も動いた。
向かっていけば当然克ち合うが、意図しない距離で何匹かは行き過ぎる。上手いこと反れても、人間の全力ダッシュより飛んでくるスピードの方が格段に早い。飛行する方が早いのは体が小さくて空気抵抗が少ないからだろうか。
あっという間に囲まれて頭に、背中に、胸に、腕に、足に、張り付く。嫌な感覚。
キリクを振り回して散らしても、すぐに別の奴が噛み付いてくる。
「あかん……血ぃ足りなくなりそう……」
「おまえあれだ、勝呂とか子猫丸みたいにばばっと詠唱で祓えないのか?」
走りながら各々獲物を振り回して払うがあまり大振りも出来ない。そろそろ狭くなってきている道幅が余計動きづらくする。燐の提案は最もだったし、既に囲まれている今なら集中して狙われるとかそんなもの関係ないが、もっと根本的な問題がある。
「俺覚えてへんもん」
「本当おまえなんで詠唱騎士なんだよそれで……」
「志望は志望や。今覚えてる最中や」
「今ほとんど唱えて無いだろ!?」
「だって散らした方が早いやん」
狭い道を駆け抜けながら賑やかに進む。
互いの顔も見えないが、恐らく周囲から見えたら相当にシュールだ。
「ていうか奥村くんこそ剣ぬかへんやん!」
剣を抜かなければ騎士にはなれない。当然だろう。
けれど廉造は燐が剣を抜いたところを見たことが無い。いつも持っていることからもそれが燐の得物ではあるのだろうが。
「あーっ志摩、抜けた!」
「なにがっ!?」
ギャグかと思うタイミングの良さで広い空間に躍り出る。
2、3歩踏鞴を踏むと纏わり着いていた吸血蝙蝠も離れた。
入り江の最深部であるらしく海水が流れ込んでくるそこは、清浄な空気と水の霊場だ。
吸血蝙蝠は入れない。結界と同じようなものだ。
「ぷはっ目的地って此処か……?」
そう、考えてもいいだろう。初めて景色が変わり、その奥に続く道もない。
見回しても祠がぽつんと置かれているだけだ。
「まさかご神仏を取って来いいうんやないやろな……」
それらしいものは特に目に付かない。あるとしたら祠の中くらいだ。
古い祠はあまり手入れもされていないようで今にも朽ち果てそうではあるが、それにしたって坊主にやらせるとはなんて罰当たりな。
「さっさと確認しようぜ」
「わー奥村君ちょっと待ちー!」
廉造の静止は一歩遅かった。
酷くあっさりと、祠の扉に貼ってあった符が剥がれる。
「あーあかん……」
「なんだよ、なんかあるのか?」
「多分これなんか封じてるんや」
ジリジリと祠から下がりながら周囲を窺う。何が出てくるかは分からない。この中に目的の致死節があるというのならそれに関係した悪魔だろうが。
ふいに感じたプレッシャーに振り返る。
闇――そう思うほど暗い。
ずるりと這う黒い髪。
長い長い髪は日本特有の幽霊をまさに表している。
「なんだこれー!」
燐が思わず絶叫を上げる。
インパクトは相当にデカイ。
「おい志摩、これなんだ!?」
「俺かて知らんわ……」
特別優秀でなくとも家と友人とが皆祓魔師関係者のお陰で最低限は知識を持っているはずの廉造が知らない悪魔。
で、いいのだろう多分。
「ゴースト……な訳あらへんよね……」
「ゴーストってあれだろ、メッフィーランドに出たようなやつ。だったらこんなおどろおどろしくないだろ……?」
「まぁ、そういうイタズラレベルの奴だけやないですけどね」
明らかに質量がある。ゴーストが取り付くのは揮発性物質だ。
その物質的な特性が無くても。
「これは流石にそのレベルやないですやん」
シャラン。
腰が引けて一歩下がった拍子に遊環が音を立てる。
その音が気に障ったのか顔が上がる。髪と同じ黒――漆黒の瞳に思い切り認識されて。
嫌な汗が流れた。



とりあえず倶利加羅を袋ごと構えて燐は正体不明の悪魔と思しきものと対峙する。
半歩後ろで同じようにキリクを構えた廉造を思うと剣を抜くわけにはいかない。いかない、けれど。
「どうにかしない訳にもいかねぇしっ」
燐が地面を蹴る。
悪魔までほんの数歩の距離だ。助走から一飛びで悪魔の頭上へと跳躍する。
高く、剣を振り上げた瞬間に目が合う。濁った眼球はそれでも人の目をしていた。
『寂しい』
燐の頭に声が入った。
クロと話すのとは違う。会話にはならない。一方的な感情――怨念?
『どうしてなの。どうして。私のことを愛してくれたんじゃなかったの』
燐に向けているわけではない。
それは届くことの無い誰かへの言葉。ただ、それだけだったはずなのに。
『寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい寂しい寂しい寂しい寂しいさびしいさびしいさびしいさびしい――恨めしい』
最後の一言に――ぞっと、した。
それは誰の狂気だ。
暴風雨のような言葉は誰もが持ちえる、燐にも覚えのある感情だ。その最後の一言さえも。
感傷に気を取られた隙に髪が腹部を薙ぎ払う。
いくら広い空間とは言え所詮は狭い洞窟内だ。思い切り良く吹っ飛んで壁に叩きつけられる。
「かはっ……」
岩にぶつけられた圧迫で一瞬息が詰まった。
「奥村君!?」
ガラガラと抉った壁から落ちる石の合間を縫って廉造の声が飛ぶ。歪む視界を抉じ開ければ悪魔は変わらず泰然と佇んでいて、夥しい量の髪がゆらゆらと揺れていた。
あれが、あいつの武器。
爪も牙も持たない人型の悪魔の脅威。
『私を裏切ぎるなら許さない、許さない、許さない』
(来る――)
今度は上手く飛び退く。
岩壁を砕く破壊力は中々。燐の人型を見事に粉砕した。そんなものに間違っても当りたくはない。
とはいえ常に一定でない武器は間合いが取りづらい。そもそも飛び込んでも剣が使えなければ一撃必殺とはいかないだろう。
じりじりと壁を背に避ける。それが精一杯か。
「くそっ……埒があかねぇ」
一か八か。上は駄目だ逃げ場が無い。低く走る方がまだ対応ができる。
頭の前に抜けない剣を翳して、悪魔に向かって地面を蹴る。
近づけば近づくほど数が多い。まったくどれだけ使えるのか。いくら女の髪だからって多すぎやしないか。
避けきれなかった髪がしゅるりと首に巻きついた。
「んのっ……」
引きちぎろうと手に力をこめるが細い糸が寄り集まったような髪の束は中々切れない。
燐の腕に血管が浮く。
(こんなん、中々ねえぞ!)
燐の力は車だって持ち上げる。糸みたいな髪なんてすぐに切れそうなものだが。
(駄目だ、酸素……)
息が、苦しい。

――斬。

「だからちょお待ちぃってゆうてるんやて」
ぜえぜえと酸素を取り込む、膝を付きそうな燐の前から廉造の声が降って来た。







































































04
風の音が吹き抜ける。入り口から少し離れただけでもう光が届かない。
ほの暗い中を進むにはあまり心臓に良いBGMでは無いことだけは確かだ。
「本当ちょっとしたホラーやなこれ」
「天然の洞窟とか俺初めて見た」
物珍しそうな燐につられて周囲を見回す。
廉造にとってもあまり見慣れた光景ではない。鍾乳洞なら何度か入ったことがあるが。
「懐中電灯でも持ってくるべきやったな」
「へ?あーそうだなちょっと暗いか」
その微妙な反応に廉造は首を傾げる。
まるでこの暗がりで不都合なく見えているかのような。
「なんや、奥村くん見えるん?」
「ま、まあな。俺、目いいからさ……ってうわっ」
身を引いた燐の眼前。羽音にキリクで飛んできた何かを振り払う。鈍い衝撃は当てたのが虫や石の類ではなく、もう少し血肉を伴う生き物だと伝える。その情報だけでは何か分からないが、羽音というあたりから廉造にとってあまり嬉しい自体にはなりそうにない。
念のため確認しようと目を凝らしているとぼわりと浮かんでくる。目が慣れてくるのとは違う、太陽の光が射さない場所での淡い光源。
「光苔か……風流やな」
「で、なにが飛んできたんだ?」
覗き込む燐の目線に合わせて落としたそれを拾い上げる。
ごわついた毛皮はましといえばましだけれど触れていてあまり良い気持ちのする感触ではない。
「うへぇ。吸血蝙蝠やん」
「吸血蝙蝠?」
「虫豸みたいなもんや。普通の蝙蝠とも大して変わらん。ちょぉでかい分当てるのは大変やないけど、一匹の吸血量が多いから血ぃ抜かれすぎないよう気をつけた方がええよ」
「へぇ。志摩も物知りなんだな!」
「……奥村くん俺は普通に物知りな男やで?」
というか燐に知らないことが多いだけではあるのだが。
その祓魔術師の世界では常識なことも燐は知らない。その分だけのアドバンテージ。
それだけだって事実であるから、なんやのその失礼な発言はと悪びれずに混ぜっ返す。
「悪ぃ悪ぃ。勝呂とか子猫丸の方が良く教えてくれるからさ」
「俺は知らんわけじゃなくて坊らのが面倒見がええの!」
「あーなるほど」
それは誇ることじゃないというツッコミは入らない。
ああもうどうしてこんなこんなボケばかりな会話。なまじテンポ良く進む所為で声が高くなる。
「まぁ、お二人より熱心じゃないのは否定せぇへんけどね」
「おまえ全然覚えないもんな」
「奥村くんほど寝ておらんよ」
授業態度を揶揄しながら摘み上げた蝙蝠をぽいと投げ捨てて立ち上がる。
正体が分かればそれに用は無い。その微妙な気持ち悪さにズボンの横でつい手を拭った。
「この先でええの?」
「この地図、ここの入り口までしかねぇよ」
「……ほんまにそれ奥村せんせが書いたん?」
ただのお使いにしたってアバウトすぎる。
この先が不明なのか、それとも一本道なのか。最も分かれていても気づきそうに無い。
光苔のお陰で歩くのには困らないが、それでもスタスタと何の不便も無く歩く燐の目はいったいどれだけ良いのかと呆れつつ廉造はやや遅れて歩く。
確か、そう。あまり思い出す機会の無い知識を頭の片隅から引っ張り出す。
普通の蝙蝠と同じく吸血蝙蝠も暗い場所を好む。明るいところでは動きも鈍くなるし、奴らは目があまりよくない。人間とは逆であるからこの光源はありがたい。
なにしろ、こんなのに囲まれたらと思うとぞっとする。嫌いとかそういう次元の話でなく。一匹やそこらならそう害は無いのだが。
「なぁ志摩、致死節ってこんな風に取りに行くようなもんなのか?」
「んーどうやろなぁ……俺も教科書に載ってるやつしか知らへんし」
燐の疑問にはてと廉造も首を傾げる。
そもそもどうやって解明するのかと言うところからしてまだ塾では習っていない。
「ま、時々増える言うし、どこぞで研究されとるもんだと思うてたけど」
まさかこんなところで文字の研究など出来るわけが無い。
ありえるとしたら実験途中で奪われたか。
(……はははは、まさかなぁ……)
嫌な想像に思わず首を振る。考えたくも無い。
だってだとしたら明らかにミスチョイスだ。それともどこかに先生が隠れているとでも言うのか。
「じゃあさ、何の致死節だと思う?」
常から実戦派と自称する燐にとっては廉造がうっかり考える嫌な想像よりも好奇心が強いらしい。
うきうきとした顔が前を向いていても分かるようだ。
「水辺やし水の王の眷属とか?」
「吸血蝙蝠って水関係なのか?」
当て推量に巨大なハテナを返されて沈黙。
確かに、水の眷属かといわれるとそうではなかったような気がする。
それに多分吸血蝙蝠の致死節は解明されているはずだ。なんと言ってもわりとポピュラーな悪魔である。
だからと言って他にこねられるような理屈もなく。
(ふっ……物知り志摩君と言ったからにはなんや気の聞いたこと返せ言うわけかい)
自称が滑ることほど格好悪い事は無い。
俄然頭を回転させ始めた廉造に、燐は素朴な疑問にハテナを飛ばしたまま。
「志摩!」
鋭い声で廉造を呼んだ。
一瞬何が起きたか分からずに足を止めた廉造を突き飛ばし、燐が素手で何かを叩き落とす。
何か、なんてこの状況では大体推測がつく。
どさりと何かが落ちる重い音。極近く、廉造は自分の足元に落ちたそれを恐る恐る見た。
「奥村君……今素手で何しよった……?」
答えは目の前にある。
聞く必要もないのに口に出してしまうのはその行動があまり人間的ではないからだ。まるで野生の熊か犬。
それでも結果は変わらない。
「あーびびった!」
あっけらかんと笑って燐は手を払う。
なんて人だと思う。いくら相手が小物だからと言って血を吸う悪魔に対して無防備すぎる。人を襲うだけあって牙や爪は鋭い。人間の皮膚など簡単に裂いて血を食らうのだ。
「いやいやいや!そうや無いでしょう。大丈夫なんっ!?」
「別にいいだろ。なんでもねぇって」
引きつった顔の廉造など歯牙にもかけずにさっさと歩き出す燐を追いかけながら足元の悪魔を見る。
当然ながら完全に祓えたわけではない。くったりと横たわる憑依元である蝙蝠が人間で言うところの脳震盪でも起こしているのか。
念のため、振り上げたキリくはガツンと地面を叩いた。素早く飛び上がった蝙蝠の羽に他とは違う色が妙に鮮やかに見えた。
(血……?おいおい奥村君てほんま何者なん)
素手で悪魔に傷を付けるとか。
違う。はっと前を歩く燐の手を見る。
「……奥村くん今引っ掛けはった?」
「あーたいしたことねーって。気にすんな」
やっぱりなぁと思いながら燐の手を引く。
良く見ても怪我としてはたいしたことではない。魔症としても自然治癒で問題の無いレベル。
けれど、取った手の傷口を口に含む。鉄臭い味が口内に広がった。
「おい、志摩?」
「吸血蝙蝠は血の匂いに引かれてくるんや」
さっき思い出した普通の蝙蝠と吸血蝙蝠の違い。
普通の蝙蝠は音に反応するが、吸血蝙蝠は血に反応する。そのままにしておけば、誘蛾灯のように集めまくるだろう。
そんなのは御免だ。
「自分でやるって。汚ないだろ」
「そんなわけあらへんやろ。それに自分じゃ届かんやろ?」
じわじわと皮膚から零れる血液を吸って飲み下す。
ごくりと廉造の咽喉がそれを嚥下するのを燐は不思議な思いで眺める。
――悪魔の血を飲んだら、人はどうなるのだろう。
血のつながりがある雪男が普通の人間なのだから、悪魔にとっては血に意味があるわけではないのかもしれない。
そうだといい。
「ま、気休めやけどな」
はいおしまい。燐の傷口から唇を離した廉造はへらりと笑った。
血を止めるだけの簡単な処置がどうしてこんなに心臓に悪いのか。
「……ありがとな」
「やーあのまま放っておいて囲まれたらほんま往生でっせ」
「そんな大げさな……」
「奥村君は大丈夫でも俺は駄目なの!だから無理せんとちゃんと言うてよ」
ぶるりと震えてみせる真似までして、そんなことを言うから。
「おまえ本当カッコ悪いなぁ」
燐は思ったことと反対を言った。






































































03
ぐっと伸びをして草臥れた無人の改札を出る。
長時間座りっぱなしの体は固まってぼきぼきとところどころで音が鳴った。
「うーん、体ばきばきや……」
「あーっ本当じっとしてるってのもしんどいよなぁ」
「あはは……奥村君はほんま元気やなぁ」
ぐるぐると腕を回しながら元気に歩いていく燐と、とぼとぼとその後を歩く廉造では同年であるはずなのに随分と対照的だ。
これから待つものへの期待度の違いもあるのか。人間待つものが楽しみであれば比較的疲労感は紛れる。任務に対する期待度は明らかに燐の方が上だった。
今回の任務は移動時間を考えて一泊二日だ。学校の授業には影響の出ない範囲ではあるが候補生に与えられる任務としては珍しいとも言える。これが与えられた経緯故だと言えばそれまでだが。
「厄介なことやないとええんやけどなぁ」
それは中々難しい相談か。
一先ず一泊分の荷物を置きに指定の宿泊場所へ向かう。任務の詳細もそこで聞くことになっていたのは確かだが。
「よく来ましたね。旅は快適でしたか?」
来るのなら自分たちと同じ経路を辿るしかないはずの人間に迎えられて燐が切れた。
「はぁ?おまえ雪男なんでこんなとこ居るんだよ!」
「僕は鍵が使えますから」
しれっとした顔で平然と兄に返す雪男の顔は確信犯で、どう考えても完全に嫌味だ。
当然の理屈ではあるのだが、人間身内――それも弟とくれば素直にはいそうですかと引き下がれるわけも無く。
「そんな手段があるんなら俺たちもそれにしてくれれば……」
「君たちはまだ使えません。これは正式に祓魔師に与えられるものですから」
「せめて新幹線にしろよ!」
「そんな経費の落ちる任務ではありません。それにこの辺りは新幹線の駅も遠い」
「ケチくせぇ」
「……兄さん、これはペナルティなんだって分かってるよね……?」
コメカミの辺りが怪しくなってきた。
それを敏感に感じ取って慌てて廉造が兄弟の間に入る。如何にも鉛やら刃物やらが飛んできそうな兄弟喧嘩に巻き込まれてはたまらない。
「まーまーま。せんせも奥村君も落ち着いてな。俺も奥村くんもちゃーんと反省してますって」
はぁ、と雪男から吐き出された溜息は重い。心配だとあからさまに語っている。
ただ取り合うことはなく首を振るだけで話の流れを切った。
「僕もあまり時間がありませんので、手短に説明します」
「なんだよおまえここまで来ておいて一緒じゃないのか?」
「僕は別の任務でついて行けません」
燐の言葉に心配を押し隠した平淡な回答。
それは完全に候補生二人に与えられた任務だということ。

「君たちには致死節を取りに行ってもらいます」





まだ太陽が沈みきる時間には早いというのに、妙に薄暗い。気のせいか生ぬるい風が纏わりつくような場所だった。
燐が渡されたメモは雪男が書いたとは思えない中々にアバウトな地図だったが、迷う余地が居ない一本道だ。
「奥村くーんほんまここなん?」
「ここだろ?間違いないって」
海辺の入り江。その奥に奉納されているという致死節を持ってくるのが自分たち二人の任務と言うわけだ。
恐らく研修資料であるはずのそれが何故そんな場所にあるのかは教えられていないが、持ってくるだけという至極簡単な話のはずだった。
その何が任務なのかと聞きたくなるくらいの任務は、この場所を見るとあながち楽では無いのかもしれないと思えてくる。
「なんやえらい不気味なところやね……」
「なんだよおまえお化けも駄目なのか?」
「ちょ、”も”ってなんやの奥村くん」
なんでどうして接続詞が複数系なのか。確かに此処に来る前に虫で醜態をさらしたばかりではあるけれど。
情けなく訴える廉造に燐はだってと可笑しそうに笑う。
「だっておまえ腰引けてんだもん」
いつもと変わらないその自然体に、廉造も諦めて腹を括る。別にお化けについては虫のように生理的に駄目というわけではない。
祓魔師がそれを苦手としていたら仕事にならない。そういった超常現象は悪魔のケースが高いのだ。
尻込むとしたらその先に控えている悪魔が手に負えないくらいに強い場合か。
(まぁさすがにそないなことはあらへんか)
そんな任務を候補生二人に回してくるとも思えないし、いくら雰囲気があるといったって雑魚の数が多いとかそんな程度のはずだ。
そう、雑魚の数は多いかもしれない。
(……やっぱり簡単にはいかんよなぁ)
これで何も出てこなければこちらも長時間電車に揺られてくたびれ損だ。きっと休みを返せと言いたくなる。
そう言い聞かせて。
「ちょい待ってな」
仕込んであったキリクを素早く組み立てる。
いかにも何かありそうなこの様子では、すぐに使えるようにしておいたほうがいい。廉造の別に高くも無い危機管理能力がそう告げた。
「ほな行こか」










































































02
電車を乗り継いでガタンゴトンと揺れる。
2両しかない電車なのに、自分たち以外にほとんど人が居ない。別に貸切ったわけでもなく利用者がポツリポツリと横一列の座席に座っている。
田舎ではよくある光景だがなんとものどかだ。
学生服の自分たちが周囲の風景から酷く浮いて見えた。
「別にいいんやけど……なんで任務、奥村君とばっかなんかなー」
「ま、今回は罰だって言ってたしな……」
のんびりと鈍行に揺られているとどうにも緊張感は続かない。というか任務がまだいまいちよく分からない所為で緊張感も何もない。
罰という言葉とそれを与えた雪男の性格だけがかろうじで任務であるという意識を繋ぐ。
「囀石の捕獲とかやったらどないしよう……」
重いしつまらないし、まったくもって面白みの欠片も無い。体力は使うし中腰で持ち上げるため腰に来る。
だからこそ罰と聞けば真っ先に上げられるのだが。
「でも、詠唱騎士とか騎士とかそれ関係ないよな」
珍しく頭を使った疑問を燐が口にした。
確かに捕獲なら致死節を唱えて祓うのはだめ、かといって並みの刀剣では歯が立たない。
そして、ただ持ち上げるだけなら誰でも出来る。
「そやね。奥村せんせそないなこと言ってたな」
うーんと首を傾げてみるが、他に出てくる心当たりも無く。
――会話が途切れる。
こんな風に二人で静かに居ることなど今までに無いことで会話が続かない。
別に沈黙が嫌いというわけではないけれど。
(うーん、なんかねぇかなぁ……)
なんとはなしに考えた燐の頭に雪男の言葉が浮かぶ。
『詠唱騎士志望と騎士志望なら丁度いい』
普段は誰が何志望だとかそんなことを気にすることは無いが、改めて言葉にされると気になってくる。
「そういや志摩はなんで詠唱騎士なんだ?」
「なんや今更やな」
随分前に何を目指すかなんて話はしたはずだが、それっきり触れることもない話題だった。廉造にとって竜士や子猫丸との間では不要の会話だ。今までそこに誰かが入ってくることも無かった。
認定試験はまだまだ先だが、進路を決めてからはもう大分経っていて随分今更な話題ではある。
「や、なんか聞いたことなかったし」
暇だし、と言うのに暇つぶしってなんやと突っ込みを入れながらうーんと廉造は考えて腕を組む。
まぁだって暇だし。何も話題がないより賑やかでいいだろう。別に答えられない様な理由も無い。
ただ捻り出すのに少しだけ時間が要る。
「やっぱ昔からお経唱えるのは日課やったし、俺根性ないし」
「でもおまえいっつも隠し武器持ってるよな」
詠唱騎士は詠唱中に無防備になるという特性から後衛になることが多い。
騎士や竜騎士のように獲物を武器に戦う人間は当然前衛で、廉造の戦い方は多分そちらに近い。
竜騎士も目指しているという竜士もそのタイプではあるだろうが――実際廉造の兄たちは竜騎士の資格も持っている――竜士に比べるとむしろ廉造の方が圧倒的に前線での戦闘が多い。それは竜士と廉造の関係が宗主の息子と門徒という関係性がある。
それはそれとして。
「うちはそう言う家柄なんや」
「家柄って?」
「兄貴たちもみーんなキリク持ち歩いとるよ。ま、詠唱騎士の他に竜騎士の資格ももってるけどな。昔から習い性なんや」
「おまえんちバイオレンスだな……」
バイオレンスって、いや、久しぶりに会えばコブラツイストがふってくるような家ではあるけれど。
何を考えたのか引き気味の燐に廉造は苦笑する。
「まぁなぁ父親もそうやし」
「オヤジ、かぁ……」
その言葉に寂しそうな顔。
廉造は燐の家の事情はよく知らない。ただ弟と二人協会で育ったということだけは知っている。
家がどうのなんていう面倒なしがらみは勿論、燐は自分のルーツも知らないのだろう。それだとどうしていつも刀を持ち歩いているのか不思議ではあるけれど。
「ジジイが何が得意だったかなんて俺知らねぇし。雪男とも全然違ぇし」
「別にええんとちゃう?」
確かに血脈や家として引き継ぐものはある。
でもそれが家族の全てじゃない。
「うちみたいに宗派つーかお家芸みたいのあるところにはあるけど、そうじゃおらん人も多いって」
考えてもみぃと廉造のやや下にある額にデコピンをかます。
ペチリと大したことない気の抜けた音にいってーなと噛み付いてくる燐にへらりとした笑顔を向けて。
「そやなかったら塾なんて必要あらへんやろ?」
家で全ての知識が賄えて才能が開花されるなら塾なんて必要ない。
祓魔塾という存在そのものが一つの流派と言えるはずだ。
「それもそうだな!」
単純に納得した燐がへにゃりと笑う。デコピンの報復は廉造には返らない。
そんな他愛も無いことを話しながら。
ガタン、ゴトン。
電車はのんびりと走る。










































































01
”良薬口に苦し”とは良く言ったもので、薬とは触りたくないようなものを原材料とするものも案外多い。
現代の医薬品は科学物質が多く目に見えて分かるものは少ないが、魔障に有効なものとなるとそうもいかない。有効であるとされる物の中でも、その中の何が有効であるのか成分としては解明できていないものが多いためだ。
壇上に立つ雪男からは、机の上に並べられたものを見て引きつった顔がところどころに見えた。
「ではこの作業は二人一組で進めてください。危険はありませんが刃物を使うので注意して」
はーい、と返事だけ良く響いたが解説をした雪男は何も言わなかった。
兄ならさておき、この物々しいものが一般的な同年代の子供にどのような衝撃を与えるか想像に難くない。
なぜなら自分がかつてその道を辿ったのだから。
(まぁ、普通はそうなりますよね……)
ふっと昔を思い出して遠い目になる。
悲鳴を上げて飛び上がった話が広まって神父さんに大笑いされた記憶は雪男の中の黒歴史として眠っている。
今ではもう慣れっこになったが、気色の悪い虫と草にしか見えない物に目をやって首を振り、また生徒に目を戻す。
すぐに返事を返せる辺り、彼らはそれなりに肝が据わっている方だ。
――そうでない者も居るが。
ヒヤリと目元を厳しくして兄へと近づく男を見る。
「奥村くん、一緒にやらへん?」
へらりと笑って廉造がいつもの三人一緒の定位置から降りてくる。
前の方の机で一人その材料に向き合っていた燐は手を止めて首を傾げた。
「なんだよ志摩、勝呂たちとやんねーの?」
「いやーだって奥村くん料理上手いってことは包丁使うん得意やろ?」
それがなんだ、とは聞かせない。別に不器用だと思われようが、料理が出来ないと思われようが構わない。こんなグロイ虫触るなんて絶対に嫌だ。机の上はできるだけ見ないようにしてこの時間を乗り切る。そのことに全力を注ぐ。
ぐっと拳だけに力を込めて二人組みやしと笑顔で付け足せば、廉造の内心など欠片も読まずに燐はふーんと納得したらしい。
「まぁ、いいや。ならさっさとやっちゃおうぜ」
しえみを見れば出雲とすでに作業を始めている。燐とて他に組んでくれそうな奴も居らず、どの道あぶれる。
それは3人組の廉造たちだって同じだ。
あっさりと肯定を返して燐はくるりと机に向き直る。
(よっしゃぁーっ村君ゲットや!)
燐の後ろで廉造はぐっとガッツポーズをとる。
これで、自分が包丁で虫を粉々にすることもないし、直接触ることもない。得意な人間は態々苦手な人間にやらせないし、エグイ虫たちは無事に処理されるだろう。料理が得意で虫OKな友人素晴らしい。
「んじゃ志摩、適当に材料切ってこうぜ」
「それよか分担しよか。終わった奴から鍋入れてった方が早いやろ」
鍋を掻き混ぜるだけであれば廉造にも出来るという自信がある。なんせそこまでくれば形が残っていないし、何より素手で触るわけではない。素手で触れるかどうかは中々に大きい。
(奥村君はその辺、無理強いする子やないと思うし……)
勝呂や子猫丸のように苦手は克服しろと強制されるわけではない。無理なら無理でダセーとか揶揄って笑うかもしれないが。
トントンとリズミカルな包丁の音になんでこれ大丈夫なのかなぁとそっと嫌な部分は見ないように覗き込む。
(やっぱ無理だわ……坊も子猫はんも出雲ちゃんも嫌っそうな顔やな……杜山さんは流石やなぁ)
動じていないというか、まるで料理のように楽々やっているのが燐、包丁の扱いに一杯一杯なのがしえみというところか。分かりやすい二人である。
「なーなー志摩、これって何切りだったっけ……」
ふと音が止まったかと思ったら不意すぎる。ぼんやりと人の観察にふけっていた廉造は、燐が摘んでずいと突き出した材料にお玉を落として飛び上がった。
真っ黒な、ウネウネとした、虫。
それがまさに目の前数センチ。
「ぎゃーいややーっ助けて奥村くんー!」
「え、ちょ、おいっ志摩暴れんな!」
包丁を持っているのも忘れて燐の腕ごと虫を振り払って手近な人間に飛びつく。
振り払われた衝撃と、自分よりでかい人間に押し潰された所為で燐の手から包丁が飛んだ。さらに鍋がひっくり返る――廉造が飛び上がった時に引っ掛けた――凄まじい音は教室中の視線を集め、それから零れるものにザッと人が遠のいた。
「君たち……」
その中で一人、距離をとるでもなく、近づくでもなく、ニコリと雪男が笑った。
その後ろの黒板には深々と包丁が突き刺さっている。うっかり雪男を掠めそうな絶妙な位置。
あ、しまったなんてことは燐じゃなくても分かる。
ざっと血の気が引く青筋の立った笑顔。
「いや、ほら、ふざけてたわけじゃなくてさ!」
「そ、そ、そうですわ。俺、ほんま虫駄目で……!」
「いやおまえそれは男としてどうなんだ……?」
のんきな会話にピキリと雪男のコメカミに更に一本筋が追加された。
まったく兄さんは、と何故か燐の方へと怒りが傾いているようだが廉造に怒りが向けられない訳は当然無い。
「そんなに暴れたいなら任務を上げましょう」
くいと眼鏡を上げて宣告する。
「え、なんだ!?」
「ちょお、待ってください。それって俺と奥村君の二人ですか!?」
正反対の反応をする二人の生徒にゆっくりと雪男は肯く。
絶対零度の笑顔はそのままで、非常に恐い。
「詠唱騎士志望と騎士希望なら丁度いい」
何がですか、なんて聞く余裕は無く。
「その無駄に有り余った元気を発散してきてください」
燐に抱きついたままの間抜けな格好で、廉造はぽいっと教室から追い出された。